年間A年 2011年
年間の主日
14〜22
年間第14主日
年間第15主日
年間第16主日
年間第17主日
年間第18主日
年間第19主日
年間第20主日
年間第21主日
年間第22主日
年間第14主日 A年 2011−7−3 グイノ・ジェラール神父
ゼカリヤ 9,9-10 ロマ 8:9、8,11-13 マタイ11,25−30
今日イエスは、 御父に向って祈っています。 喜びに満ち溢れているその祈りは、 感謝の祈りです。 神が行ったみ業のために、 イエスは御父をほめたたえます。 また 、学識の浅い人々や、 子ども達がご自分の教えに自発的に答えるのを見て 、イエスは感嘆します。 イエスは、 賢いと思われている人々にも、 彼らが信じられるようにと、 全ての必要なしるしを与えたにもかかわらず、 彼らがご自分から離れ、 イエスを軽蔑するようになるのを知り、 残念に思われました。 それでも、 イエスは喜びで輝いているみ顔を 弟子たちにお見せになりました。
聖霊で満たされたイエスの祈りは、 全ての人に捧げられた招きです。 「疲れた者、 重荷を負う者は私のもとに来なさい・・・私の軛は負いやすく・・・私は柔和で謙遜な者だから」 イエスは、 私達の疲れ、心配、弱さを背負うことで、 私達にご自分の喜びと平和を与えようとされます。 イエスが私達の肩に乗せたい軛は、 ある人が思い込んでいるような、 十字架や試練や新しい苦しみでは決してありません。 イエスは、 私達の今持っている苦しみの上に、 さらにもっと重すぎて背負いにくい新しい苦しみを加えようとは されません。 イエスが提案する軛は、 私達の肩を抱擁するあわれみ深い腕です。 すなわち、 慰めと励ましを与え、苦 痛と心配を分かち合う友の腕です。
ローマ人への手紙の中で、 使徒パウロは次のように言いました。「 聖霊が私達のうちに宿っているかぎり、 私達は肉ではなく 聖霊の支配下にいます」 私達が、 キリストの内に、 避難場所を見つけられるように、 そして、 イエスの親密な友情を味わえるように、 聖霊が私達を助けます。 確かに、 イエスは命であり、 復活です。 もし 、私達が信頼をもってイエスに近づくなら、 イエスは私達の内に、 全てを新にされます。 しかし、すでに(私達が神の子となった時に) 慰めと励ましの泉である聖霊は、 私達に神の愛の確実さと喜びを与えています。 父なる神は、 ご自分の子イエスによって、 私達を救いました。 私達が、 神の愛する子であることを、 神はご存知です。 もし、 私達がキリストのように柔和で謙遜な者であり、 その上に、 単純な人や自発的な子どものように、 知りたい、 学びたいという気持ちを育てるなら、 神はすぐに私達の助けとなります。 何でも知っていると思い込んでいる人は、 絶対に新しいものを受けずに、 世界中で神が行っているみ業を、 決して理解することはできません。
滑稽と思われるような方法で 人々を敵から救い解放される、 神の喜びを味わうようにと、 預言者ザカリアは、 私達を誘います。 完全武装した敵に勝利するために、 ただ一頭のロバの子が必要です。 すでに打ち勝ったと思い込んでいた人々は、 神の遣わされた僕の柔和と謙遜によって、 後退します。 使徒パウロが、 コリント人への手紙の中で、 ザカリアの預言を、 こだまのように響かせます。 「神は知恵ある人を恥じ入らせるために、 この世で愚かとみなされているものを選び出し、 また、 神は強いものを恥じ入らせるために、 この世で弱いとみなされているものを選びだされました。」(Tコリント1,27) また、 聖パウロは 「私は、弱い時こそ強い」とも、 言いました。 ある時、 不平不満を叫んでいたパウロに、 イエスはこう答えられました。 「弱さにおいてこそ、 力は余すところなく発揮される」(Uコリント12,10)
私達は、 自分の弱さや欠点をさらけだすよりも、 自信に満ちた強い姿を見せる方を好みます。 けれども、 教皇ヨハネ・パウロ2世の生涯の最期を考えてみましょう。 教皇は、年老いて、 病気に苦しみ、 歩くことも話すことも全くできない状態でした。 世の賢い人達は、 教皇がその聖職を辞するのを、 強く望んでいました。 しかし、 ヨハネ・パウロ2世は、 ご自分の苦しみを通して、 世界中の人々に、 人間的な弱さの尊さを示されました。そして、 最期の時までずっと、 人々の前で生きている 、復活されたキリストについて証しを続けました。 賢明な提案をし、 教皇の辞職を願った賢い(と思われている)人々は、すぐに人々から忘れ去られてしまいましたが、 教皇が残した模範は、 人々の記憶の中にずっと残るでしょう。 これこそ、 神の知恵です 。賢い人にとって、 それは愚かとみなされ、 子どものような心を保ち続ける人にとって、 それは、 あふれる喜びです。
ミサ祭儀は、 いつもこのように始まります。 「主イエス・キリストの恵み 神の愛 聖霊の交わりがいつも皆さんと共に」。 「私達は、 キリストの満ち溢れる豊かさの中から、 恵みの上に、 さらに恵みを受けた」(ヨハネ1,16)と、 聖ヨハネは言っています。 そういう理由で、 司祭は神の前で、 そしてイエスの名によって集まっている兄弟・姉妹の前で、 私達が自らの弱さや欠点、 罪を認めるように誘います。 公然と宣言される私達の回心の決意は、 日常生活のうえに、 天の祝福を引き寄せます。 この賜は、 教会的であり、教会の信仰の内にしか、 また共同体としてしか、 受けられないものです。
神の恵みによって、 私達は神の愛する子どもとなりました。 神の恵みによって、 キリストが私達を救い、 私達のために命をお与えになります。 神の恵みによって、 聖霊が私達の心に注がれています。 ですから、 子どもの心を持って、 神に感謝しましょう。 そして、 母マリアと共に、 神が下さった全ての恵みのために、 私達の喜びを賛美しましょう。 「神が私に偉大な業を行いました。 その名は尊いです。」(ルカ1,19) アーメン。
年間第15主日 2011-7- 10 A年 グイノ・ジェラール神父
イザヤ 55,10-11 ロマ書 8,18-23 マタイ13,1-23
イエスが、たとえを用いて話す時、語っているこの話をよく理解するためには、まず、たとえ話の最初と最後に注目する必要があります。今日、イエスは、種を蒔く人が、種を蒔くために出かけて行き、たとえ多くの種が実を結ばずとも、収穫は必ず豊かであることを話しています。また、イエスは、私達が、良い土地のようなものであるか、それとも、実を結ばない茨の地や岩のようなものであるかということを知ることを勧めてはおられません。むしろイエスは、無理と思われているような場所でさえも、神があらゆるところで懸命に命を蒔く努力をされていることに、私達が気付くようにと望んでおられます。神にとって、無理なことは何ひとつありません。ただ、神が私達に与えられた『自由』は、神の下さる賜物さえ拒否することもでき、その『自由』が、私達が実を結ぶようにと切に望まれている神の希望を台無しにするのです。
使徒パウロは、ローマ人への手紙の中で、イエスのたとえ話のテーマにもう一度触れます。パウロによると、私達は聖霊の賜物の豊かさとともに、神の子の自由を受けました。しかし、私達の内面には、聖霊の働きかけに反抗するものが多いのです。私達は永遠の幸福と神の栄光を願いながらも、日常生活が私達の希望を妨げます。そして、苦しみの上に、さらなる苦しみをもたらすのです。パウロは、私達の苦しみを、人間的な状況から離れない限りずっと続く、産みの苦しみとたとえています。それでも、私達は希望を失ってはなりません。
パウロと預言者イザヤは、それぞれの手法で、私達が希望を失わないように励ましています。パウロも預言者イザヤも、神のなさることに一切の無駄はないことを教えています。神が言われた事、また、なされた事は、必ず私達の期待をはるかに超える結果をもたらします。それ故、私達は希望が全くない所でも、希望を捨てません。ところが、マタイは、この種蒔く人のたとえ話を、あまりにも私達の状況に合わせようとしたために、残念なことに、このたとえ話を寓話と象徴的な物語としてしまいました。主のたとえ話は、私達について、ひと言も語っていません。ただ、神の国についてのみ、語っているのです。すなわち、人々の神に対する否定、無関心、無頓着、無理解にもかかわらず、神の国は必ず、豊かな発展を遂げます。
私達は、福音の全ての話を、自分たちの状況に合わせようとする誤った傾向があります。 それよりもむしろ、聖書の全ての話を通して、神はご自分を啓示なさったのですから、福音は、神の方へと私達を引き寄せるために書かれていることを知るべきです。従って、種蒔く人のたとえを通して、神が私達に打ち明けたいことに、耳を傾けましょう。
まず、たとえ話は、わざと、道端に種が落ちてくると述べています。神の言葉であるイエスは、ご自分が命と真理の道であることを、私達に思いおこさせます。全ての人を救いたいイエスは、皆のために、ご自分の命を与え、捧げ、ご自分の敵を赦します。次に、石の上に落ちてきた種は、神の言葉であるイエスが、命のゆるぎない岩であることを、思いおこさせます。岩であるイエスの上に、自分の人生を築くことを望むなら、人は、人生の災難を恐れることはないのです。茨の中に落ちた種は、昔、神がモーセに、茨の薮の中に現れたことを思いおこさせます。それは、神ご自身の苦しみと、エジプトで奴隷となっているヘブライ人の民の苦しみとを叫ぶためでした。また、この茨は、罪人を救うために、ご自分の苦しみをお捧げになるイエスの茨の冠を思いおこさせます。神の言葉であるキリストは、良い種として地に落ちて死に、豊かな実を結びました。神の栄光のために、イエスは、罪と死から解放された人類を喜ばしい収穫として刈り取ります。これこそが、種蒔く人のたとえ話が教えている事です。
私達それぞれの内に、石や茨、危険な道端があったとしても、良い土地はそれ以上にもっとたくさんあるのです。この良い土地で、私達の失敗、苦しみ、希望、信仰を通して、神の国は発展し広がっていきます。神の国は、また、イエスご自身とイエスの教会の苦しみ、涙、失敗を礎として築かれています。私達の父である神の偉大な愛が、時の終わりに、必ず、神の栄光で覆われた歓喜と喜びに満ちた収穫がもたらされる事を、確信します。
「私達に与えられた聖霊によって、神の愛が私達の心に注がれている。」(ロマ5,5)神の恵によって、私達は神の子となりました。もし、私達が毎日、神に私達の信仰、希望、愛を捧げるなら、神の恵みは、無駄にならないでしょう。喜びの収穫とするために、神は、私達の人生の全ての道、愛を拒否する石の全て、悪口の茨のとげの全て、さらに信仰と希望の良い土地を利用されます。イエスは、まことに私達の救い主、神の命の言葉であられるのですから、私達は希望を持って、神に感謝しましょう。アーメン。
年間第16主日 A年 2011−7−17 グイノ・ジェラール神父
知恵12,13,16-19 ローマ8,26-27 マタイ13,24-43
私達は皆、悪の問題に直面しています。世界中の至る所で、教会の中でさえも悪は忍びこんでいます。私達は、もっと良い世界、とがめる所の無い聖なる教会を見つけたいと願いながらも、見つけられません。なので、自分たちの間で、責任を担わせる人を見出し、指差すことを平気でします。否定できないことですが、世界、教会、家族、自分自身の心の中にさえ、良い麦と毒麦が一緒に育っています。私達は、良い麦の中から雑草を抜き集めることは、到底できません。ですが、一体抜き集めることは、必要でしょうか?
知恵の書によると、抜き集めることは必要ではなく、むしろ試練の時にこそ、神に信頼する事を招いています。不正と悪に直面して、私達があらゆる暴力、復讐を望む野心を拒否することによって、人間らしく留まらなければなりません。時が来れば、必ず神が私達の弱さを助け、真理をはっきりと明示することによって、ご自分の力を現すでしょう。ですから、神が忍耐強い方であるように、私達も耐え忍ぶ人となり、さらに神の内に私達の希望をおく必要があります。
同様に聖パウロも、聖霊が私達の内に十分に働くようにさせて下さいと私達に勧めています。人生の試練のさなかで、私達が何をしたら良いか、どのように祈ればいいのか、全く分からないので、聖霊は私達の弱さを助けに来られます。慰めるため、またその力で私達を覆うために、聖霊は傍におられます。さらに、私達の考え全てが、神ご自身の考えと一致するように、聖霊は絶えず私達の内に働いているのです。
知恵の書の教えを取り上げてみると、毒麦のたとえ話は、自分で悪の問題を解決しないように忠告しています。神だけが、悪の神秘を解決できます。何故なら、神は悪の始まりと終わりをご存知ですから。裁きは、神のものです。昔、アダムとエバが、善と悪を区別する力を奪おうとしたので、今日まで私達は皆、その災いに満ちた結果を耐え忍ばなければならないのです。例えば、私達が良いことをした、と思い込んで満足しているとき、逆に周りの人達から非難やとがめの声が返って来ることがあります。また、悪いことをしたと気が付いて落込んでいると、不思議なことに周囲の皆の利益になることもあります。ご存知のように、世界の大発見と言われるようなものは全て、人間の誤りの結果でした。このように、誰も自分の言葉と行いのもたらす結果を、予想できません。区別することは、神の特徴です。神だけが、人の心にあるものを見抜くからです。私達が死ぬ日まで、良い麦と毒麦がずっと自分のうちに入り混じっています。世の終わりまで、最後の審判の日まで、良い人と悪い人は一緒に暮らさなければならないのです。
悪い状況に置かれている時、忍耐しながらも批難しない事、裁かない事、暴力を振るわない事、物を破壊しない事、これこそキリスト者に要求される態度です。だからといって、私達がよく目にする、私達の心を痛めつける悪に対して、無関心であってはならないのです。私達の弱さは、みせかけのものです。何故なら、聖霊が私達の弱さを覆っているからです。毎日、私達と共におられる神との約束が、私達の希望に力を与えます。私達も、神と共にいるようにしましょう。不正と悪に直面して、神の忍耐を身につけ、神と一致する人は、必ず勝利します。神から離れて、自分の力だけで不正と悪に立ち向かおうとする人は、遅かれ早かれ、悪魔の相棒になる危険があります。
ところが、悪に直面して、信仰と希望が足りないので、必ず愛を加える必要があります。この愛について、聖パウロは次のように証しました。「愛は寛容であり 情け深い 自分の利益を求めず いらだたず 妬みをいだかず 不正を喜ばず 真理を喜ぶ。愛は全てを赦し 人の悪事を数え立てない。全てを信じ 全てを望み 全てを耐え忍ぶ。」(1コリント13,4-7) 神は愛に基づいて、私達を裁きます。私達が受けた愛ではなく、ただ、私達が与えた愛に基づいて。
神は、ご自分の御国の完成を早くご覧になりたいのです。しかし、罪がこの世界をとても脆いものにしました。たとえ話が教えているように、神は慈しみ深いので、忍耐強く御国の完成を待ち続けます。知恵の書は、「神は力強い方でありながら、寛容をもって全てを裁き、大いなる慈悲をもって私達をおさめられる。」と述べています。しかし、ご自分の救いの御業を完成するために、神はどうしても私達の愛を必要とされます。私達が受け、また他人に与える赦しなしに、神と隣人とに対する私達の愛の印なしに、さらに、私達の協力なしには、神は永遠の喜びと平和に満ちたご自分の御国を私達の所に来させることはなさいません。ですから、たとえ話の種蒔く人と共に、例えいつか毒麦が現れるとしても、世界中に平和・和解・赦し・愛の良い種を蒔き続けましょう。聖霊の助けによって、明日の愛と慈しみの収穫の準備をしましょう。アーメン。
年間第17主日 2011-7-24 A年 グイノ・ジェラール神父
列王記上3,5,7-12 ローマ8,28-30 マタイ13,44-52
サタンに騙されて、アダムとエバは、善と悪を区別する力を奪おうとしました。結果は彼らが死と罪を受け取りました。返ってソロモンは、神の民を賢明に治めるために、恵みとして善と悪を区別する力を謙遜に神に願いました。神は、直ぐに、注意深く、賢く、知恵に満ちた心の恵みを彼に与えました。(列王記上3,11-12)
神の知恵を探し求めるようにと、そうして それを自分の個人的な豊かさや自分のものをするために、たとえ話は私たちを招いています。 神が与えようとしている素晴らしい賜物で、自分を豊かにするために、世の終わりと最後の審判の日までに待つことは出来ません。 今からのち、私たちの魂を養い、強め、聖化とする物事、そしてまた、私たちの永遠の救いのために役に立つ物事を見分ける賢明さを持つべきです。まして、心血を注いで、世の救いを神に願うことは不可欠です。
ローマ人の手紙の中で、使徒パウロは「神は、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められた。」(ローマ8,29)と言いました。神の似姿に創造された私たちが、洗礼の時に聖霊の保証も受けました。(2コリント1,22)従って私たちは ソロモンのように「知恵のある人」とならなければならなりません。即ち、世界の救いのために キリストの顔、その手、目、体、心、精神そしてその栄光となることです。神の愛に応えようとする人々は、全てに於いて、父のみ旨を行ったイエズスに似ている者です。「キリストの似姿」であることは、具体的に、キリストと共に世の救いのために働くことです。
イエズスは、最後のたとえ話を通して、自分の倉から新しいものと古いものとを取り出し「弟子となった」一人の律法学者について述べています。律法学者と言う者は、特に、旧約聖書を通して 神のみ言葉を親しく味わう人です。 弟子と言う者は、イエズスの親しい友となって「神の国の秘密を悟る」(マタイ3,1)ことが許されている人です。聖書を探ることやキリストと共に生きること、また、神のみ言葉である復活されたキリストの体で 自分を養うことは、これこそ、たとえ話の高価な真珠ように、唯一の、本当の宝物です。 自分たちの信仰を強めるために 私たちは、この宝物から新しいものと古いものを取り出さなければなりません。神の言葉も、キリストと共に生きている親密さも、神の知恵が私たちを豊かに満たすことを可能とします。神の知恵とは、全てを完成まで導く聖霊ご自身です。
住んでいる世界は、魅力的なもの、美しいものを選ぶように、自分たちがもっと美しく、もっと綺麗であるようにと私たちを駆り立てます。目に見えるこの美しさの競争のために、ある人々が、痩せるためのダイエットをし、他の人々は、全ての新しい化粧品を追いかけています。しかし、彼らのうちに美しい魂を持ち続けるために努力しようとする人が何人いるでしょうか。 一体、私たちの間で、神を喜ばし、人の体に神の栄光の輝きを与える 内面的な美しさを探し求める人は何人いるでしょうか。正直に神の前で認めましょう。 自分の魂が要求する世話をするよりも、自分の体に手当をすることに 私たちは気を配っています。
もし、私たちが、神と人間の目に美しく現われたいのなら、私たちは先ず、神があらかじめ与えて下さったキリストの似姿と ならなければなりません。 「神を愛する者たちには、万事が益となる」(ローマ8,28)と私たちは知っています。また、「心をつくし、魂をつくし、力をつくして 神を愛すること、また、自分のように隣人を愛すること」を 私たちはよく知っています。 キリストの似姿になるために、神と隣人への愛の掟が 私たちに与えられています。この愛によって私たちは、神の子となります。従って「もし子供であれば、神の相続人、キリストと共同の相続人であり、彼と共に その栄光を受けるためです。」(ローマ8,17)「これらのことについて何と言ったらよいのだろうか」(ローマ8,31) どうして使徒パウロが 自分の説明をこの言葉で終わるのかを分かるでしょう。 確かに、なにも加える事が必要ではありません。 使徒パウロは 肝心なものを、全て、見事に教えています。
神の言葉や教会の祈りや秘跡は、私たちにとっては 本当の宝物です。しかし、私たちはそれらの」高価なものを土の中に埋めたいか、それとも上手に使いたいか?
神に耳を傾けること、本当に値打ちのあるものを教会とキリストから受け留めること、これこそ、本当の知恵です。詩編119編は、私たちに この霊的な豊かさの道を教えています。 「主よ、あなたの言葉を守ることは、私に与えられた分です…あなたの口から出るみ言葉は、私にとって千の金銀にまさる恵みです…金にまさり、純金にまさって、私はあなたのみ旨を行うことを愛します。」(56、72、127節) ですから、今日のたとえ話の最初の人のように、この計り知れない価値のある宝の前で、喜び踊り、歓呼をあげよう。そして、ソロモンのように 私たちは賢明で、正しい識別を持つキリスト者となるように 神に願いましょう。 更に、神のお望み通りに、神の愛と栄光で顔の輝いているキリスト者となりましょう。 アーメン。
年間第18主日 2011ー7―31 A年 グイノ・ジェラール神父
イザヤ55,1-3 ローマ8,35、37-39 マタイ14,13-21
神の愛が 無償だと預言者イザヤが宣言しています。 神が、 ご自分の祝宴に招かれた人は、 決してお金を必要としません。 「渇いている人は来るがよい。 飢えている人も来るがよい。」 と言った神は、 「私に耳を傾けて、私に聞き従えば、あなたたちが生きる」という言葉を加えました。 これが私たちに要求された唯一の努力です。
大人になったイエスは、 エルサレムの神殿の境内で預言者イザヤのメッセージを繰り返します。 「私は命のパンである。私のもとに来る者は、決して植えることがなく、私を信じる者は決して乾くことがない。」(ヨハネ6,35)と。 パンの増加の奇蹟が、 イエスの言葉の持つ真理を明らかに示しています。 ほんの少しの食べ物を使って、 イエスは 数え切れない群衆を養うことが出来ました。 実に、イエス自身が 神の生きたみ言葉であるからこそ、 ご自分を食べ物と飲み物として与えようとします。 ベツレヘム(パンの家という意味の場所)でイエスは生まれました。 ご自分の子が「命のパン」であることを示すために、 マリアは、あらかじめ、イエスを飼い葉桶に置かれました。 イエスこそ、 私たちを生かしている命のパンであり、 同時に、私たちの渇きをいやす生きた水の泉なのです。 イエスは「神の言葉」「命の言葉」であるからこそ、 彼自身、私たちの日常生活の糧となります。 その故に、私たちは 彼の言葉に耳を傾け、心をこめて味わわなければなりません。
教会の歴史の流れを見ると、わずかの人が神から特別の恵みを受けて、 食べず、飲まずで、ある時は寝ずに長年生きることが出来ました。 たとえば、フルー(Flue)の聖ニコラは19年間、 フォリーニョの聖アンジェラ は12年間、 シエナの聖カタリナは8年間、 そして現代のマルタ・ロバンが 聖体だけによって生きたことは良く知られています。 特に、マルタ・ロバンは1930年に26歳の時、 目の視覚を失い、 体は完全な麻痺の状態で、キリストの苦しみと親密に結ばれていました。 52年の間、つまり 1981年まで、彼女は 一度も寝ることが出来ず、何も食べず、何も飲まずに、ただ1週間に一回だけ聖体を受けることで 長い生活を過ごしました。 全く動くことが出来なかったにもかかわらず、彼女は、考えられない福音宣教的な熱意をもって、 世界中に「愛と光の家」を創設しました。 聖体だけで生きてきたこのわずかのキリスト者の生き方は、 イエスが、確かに「命のパンと命の泉」であることを不思議なやり方で 証ししています。
もし、聖パウロが 「神の愛は、とても強いから、 神の愛から私たちを引き離すことがまったく出来ない」と説明しているなら、 私たちは彼のメッセージを簡単に理解できるでしょう。 ところが、聖パウロは「恐れ、苦悶、飢え、迫害などというような人間的な状況が、神から私たちを引き離すことが出来ない」と言っています。 ところで、このような状態こそが、神に対する恨みや不平や不満足の泉となることを、 私たちはよく知っています。 御存じのように、病気や事故や思いがけない出来事のせいで、 キリスト者たちが 教会と神から離れて行くのは稀なことではありません。 また、残念ですが、 度々キリスト者たちが 誤解された言葉や理解出来なかった態度のせいで、あるいは、受けた軽蔑的な眼差しのために、 神から離れるのも珍しくありません。 確かに、自分を傷付けた人を赦すことは、とても難しいです。 しかし、どうして それが自分と教会や神とのつながりを切り離す結果を生むのでしょうか? 自分を傷つけた兄弟姉妹は 神でもなければ、教会でもないのに? また病気や人生の試練は 決して、私たちを罰するため、または試すために、神から来る災いではありません。
人生がとても息苦しくなった時、 また人を赦すことが難しくなっている時、 怒らず、軽蔑せずに、その人を見ることが出来ないなら、永遠の愛で神が私たちを愛してくださることを、 思い起こすことが必要不可欠です。 この愛こそは、私たちの心に 平和と穏やかさを取り戻す、無償で与えられている「命のパン」です。 この愛はまた、 ありのままに人を受けとめさせ、 人を赦す力を与える「生きた水の泉」です。 たとえ悪口、偽証、誉れとお世辞を言われていても、それらのものが 自分の上に注がれている神の眼差しを変えることは全く出来ません。 この意味から、私たちは聖パウロの言葉を理解するべきです。 即ち、「何も、神の愛から、私たちを引き離すことは出来ません。」(ローマ8,39) いくら人々が、私たちに対して、良いことや悪いことを言っても、 彼らの行っている業が私の利益や不利益になっても、 神の愛から私たちを引き離すことは決して出来ません。 ですから、 神をずっと見つめるようにしましょう。 死をもたらすうわべだけの偽りの言葉やうわさや悪口にではなく、 神の命の言葉に注意深く耳を傾けましょう。
試練に対して忍耐強くなるために、 聖体の秘跡で自分を養うと同時に、私たちは度々神の赦しを受けることが必要です。 それは、人を赦すことが出来ますように。 皆が 秘跡を通して、 神との出会いを深く味わうように、 私たちの共同体は 使命を受けています。 また、神との出会いを実践するために、様々の出会いと分かち合いを通して、信仰の兄弟姉妹と交わるように 私たちの共同体が 皆を招いています。 小教区は絶対に戦いの闘技場になってはなりません。 さもないと、 神は直ぐここから出て行きます。 むしろ、小教区は、和解、赦し、理解とお互いの助け合いの場とならなければなりません。 そうしたら、共同体の発展と皆の利益のために、それぞれの人がよい実を結ぶように 神が直ぐに聖霊と祝福を注ぐでしょう。 キリストの名で集まっている私たちの共同体が、他の多くの人々にとって、「命のパン」と「生きた水の泉となりますように 神に切に願いましょう。 アーメン。
年間第19主日 2011-8-7 A年 グイノ・ジェラール神父
列王上19,9a、11-13a ローマ9,1-5 マタイ14,22-33
絶望の中にいる預言者エリヤは、神の傍に慰めと励ましを見つけるために、イスラエルの地から遠くの地に逃げてしまいました。 そよ風によってご自分を啓示なさる神は、恐怖を与える出来事のうちに存在しないことをエリヤに思い起こさせます。 神は決して、大風、地震、火山の噴火の中に絶対におられません。 むしろ、神は私たちの傍に、静かに、目立たぬようにおられます。
使徒パウロは、とても悲しんでいます。 どうしてユダヤ人がキリストを拒んでいるのかを自問します。 ユダヤ人たちは、預言者たちの約束を受け、また、神ご自身と契約を結んでいました。 このユダヤ人たちのうちに、キリストと出会い、彼の教えを聞き、彼の奇跡を見た人は大勢います。 確かに、神はイエスを通して、ご自分の民に近くなり、その民の喜びと悲しみを分かち合いました。 どうしてこの限りない愛の証しは、ユダヤ人に無関心と敵意を与えているのか?…パウロは全く分かりません。 パウロは自分の質問に答えを見つけませんでした。 けれどもパウロは心の底から キリストが来られる時、皆が回心してキリストを信じるであろうと希望します。
船の中で独りぼっちになった弟子たちは、イエスから見放されたと感じます。 夜が来て、逆風が起こって湖は波が荒れた状態になります。 そこに、湖の水の上を歩き、誰かが自分に近づくのを見て、弟子たちは恐怖のあまり叫びをあげます。 すぐイエスは彼らを安心させます。「私だ、恐れることはない。」 勇気を見せようとするペトロは、イエスのように水の上を歩くことを願います。 しかし、ペトロは、イエスを見つめることをせず、突風によって起こる大波を見て、直ぐに勇気を失います。 水の中に沈み始めたペトロを助けるために、イエスは、すぐ、救いの手を差し伸べます。
聖書はいつも信仰の恐怖に対立させます。(イザヤ7章1〜8節) というのは、恐怖、疑い、勇気の欠如は 信じる人から信仰を奪い去ることが出来るからです。 自分の感情と気持ちに縛られている信じる人は、あっと言う間に疑い深い人になってしまいます。 恐怖と絶望は 信仰を麻痺させます。 恐怖に取らわれた人は、イエスがいつも弱い人間を助けるために、すぐ傍にいて下さる、ということを見失わせます。 イエスの名は「インマヌエル」であり、「私たちと共におられる神」と言う意味です。 世の終わりまで、毎日、イエスは 私たちを救うたまに一緒にいて下さいます。
残念ですが、私たちは キリストが教えたることを信じるのに鈍い人です。 逆の出来事が、あっと言う間に、イエスが傍にいて下さることを忘れさせます。 不思議なことで恐怖と勇気の欠如が起きると、私たちは強くなるために 必ず、親しい人の助けと存在を捜し求めます。 一体、私たちに一番近い存在は、神ご自身ではないでしょうか。 他の人よりまず神が、私たちに一番必要なものをご存じです。 神だけが私たちを どのように慰め、勇気を取り戻すかをご存じです。
「私だ、恐れることはない。」とイエスは 私たちに言っておられます。 イエスを歓迎する人こそは、必ず、自分を襲ってくる恐怖に打ち勝つことが出来ます。 聖ヨハネは次のように書きました。 「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。」(Tヨハネ4,18) このように、殺されないために、逃げてしまった預言者エリヤが、シナイ山のところで、神の偉大な愛を味わってから、恐れずに、イスラエルの国に戻って来ます。 同様に、イエスの愛は、恐怖のせいで 水の淵に沈み始めたペトロを救い上げます。 この愛こそ、船に残っていた全ての弟子たちに静けさやイエスへの揺るぎない信頼を与えます。
私たちは皆、このような体験をしなければなりません。 私たちの人生の中にイエスが第一の場所を占めない限り、私たちは恐怖、疑い、勇気の欠如の攻撃を受け続けます。 不安定をもたらす出来事に直面した時も落ち着くように、また、人生の思いがけない出来事にも信頼を失わないように、どうしてもイエスは 私たちの考え、心と祈りで占めるのは必要不可欠です。 イエスだけが 恐怖から愛へ、絶望から活動へ、疑いから信頼へと移行する助けになります。
イエスご自身が群衆と弟子たちの無理解に直面して、幻滅や失望や恐怖を味わいました。しかし、イエスはいつも、夜通し、父なる神の愛で自分を養われ、祈りの内に力を見いだしました。 昨日も今日も、自分の心の中で嵐が荒れ狂う時、必ず、イエスは近くに来られます。 人生の荒波の上を歩き、イエスに導かれて 陸地に行きましょう。 今日のミサ祭儀を通して、イエスは私たちに「来なさい」と言っておられます。 恐れずにイエスをよく見つめて、彼の傍に近づきましょう。 アーメン。
年間主日第21主日 A年2011-8-21 グイノ・ジェラル神父
イザヤ22,19-23 ローマ11,33-36 マタイ16,13-20
自分の人生の終わり頃にあたって、聖アウグスティヌスは自分の手で書いた書き物を読み直しました。 これをきっかけとして、彼はある文書に言葉を加えたり、またある箇所を完全に書き直したりしてしまいました。 今日の福音について、アウグスティヌスは次のように書きました。 「私は、キリストの教会が ペトロの上に建てられていると言いましたが、それよりもペトロが宣言する教会は、キリストの上に建てられていると言った方が良いと思います」と。 しかし、聖アウグスティヌスは 他の日に、次の言葉を加えました。 「とにかく、正しいと思われるこの2つの意見の間で、人はいつも自由に選ぶことが出来ます。」と。
信仰をもっている私たちの共同体が キリストの上に建てられているか、それとも、共同体が崩れないように 努力している信者の上だけに建てられているか、について、私たちは自問するべきです。 もし、キリストが私たちの努力と協力の土台でなければ、いつか全部崩れるでしょう。 詩編127番の1節がそういう可能性を忠告しています。 「主御自身が建てて下さるのでなければ、家を建てる人の苦労はむなしい」と。 ですから、自分たちの信仰について自問しましょう。 私たちの信仰は、教会が宣言する信仰でしょうか? この信仰は日ごとにキリストと彼の言葉で十分に養われているでしょうか。 それとも、多かれ少なかれ、キリストと関係のある習慣、迷信、儀式だけに基づいているのではないでしょうか。 信仰は生きているものであり、共同体の中で、特に、発展する賜物であります。
そういう訳で、私たちは皆個人的にキリストの質問に答えなければなりません。 「あなたがたはわたしを何者だと言うのか?」 昔の有名人の生き方を知るように、私たちがキリストを知ることが出来ません。 例えば、ナポレオン、宮本武蔵、また源義経の人生を細かく知ることは良いことですが、その知識は 自分の生き方、考え方、未来に対する計画の立て方を変えることが出来ません。
キリスト者にとっては、キリストを知ることは、 もはや、自分に生きることではなく、むしろ、自分のために死んで復活されたキリストに生きることです。 キリストを知ることは、彼と共に一つになるように、深く望むことです。 キリストを知ることによって、人は、キリストのうちに留まり、また、キリストも その人のうちに留まります。 もし、自分たちの心のうちに イエスと親密な関係で生きる深い望みがなければ、やはり私たちが まだまだキリストを知っていないことを認めなければなりません。
私たちの信仰は神の賜物です。 その賜物は「人間の知恵」から来るのでないとキリストが思い起こさせます。 この大切な事を知ることは、私たちの人生が神の手の中に置かれていることを理解させます。 「わたしの父が引き寄せてくださらなければ、誰もわたしのもとへ来ることができない。」(ヨハネ6,44) そしてそれに従って「聖霊によらなければ誰も『イエスは主である』とは言えないのです。」(Tコリント12,3)と使徒パウロが教えています。
私たちの人生と信仰は 唯一のものであり、同じ神秘でもあります。 私たちは、自分の人生の始めと終わりを支配出来ません。 なぜなら「私たちの命は、キリストと共に 神の内に隠されているからです。」(コロサイ3,3) 使徒パウロは、私たちに次のことも教えました。 「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。」(ローマ11,36)この理由から、神のみ言葉を毎日黙想することによって、私たちが、キリストと出会うことが肝心で、必要不可欠なことだと納得できます。 命と聖性の言葉であるイエスだけが、私たちの内に、神に栄光を与える素晴らしい実を実らせることが出来るのです。
「あなたはメシア、生きる神の子です。」 ペトロがキリストに対して語ったことを私たちは自分自身についても言えるでしょう。 確かに、私たちは 普通の人であるにも関わらず、信仰によって「生ける神の子供」となりました。 聖霊の賜物を受けたので、私たちは「キリスト、油を注がれた者たち」即ち「キリスト者」と定められました。 私たちは 本当に「父なる神、生ける神の子供」です。 この神秘を探るために、天の国に入ってから、私たちには永遠性が与えられています。 しかしながら、私たちは既に、この世で、この神秘を知り始めることが出来ます。 いつか、私たち一人ひとりは、真理をもって、使徒パウロの証しを自分自身の証しにして宣言するべきです。 「私は信じてきた方をよく知っています。」(Uテモテ1,12) 「生きているのは、もはや私ではありません。 キリストが私の内に生きておられるのです。 私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるのです。 私は、神の恵みを無にはしません。」(ガラテヤ2,20-21a)
全てのキリスト者にとって、イエスを知ることは 彼を遣わされた私たちの父である神をも知ることです。 もし、聖霊によらなければ誰も「イエスは主である」と言うことが出来ないとすれば、同じように、聖霊は 神がどんな方であるかを、私たちに知らせるのです。 キリストの命で親密に生きることが出来るように、聖霊はイエスを私たちに啓示しています。 キリストに生きることは、私たちが本当に父なる神の愛する子供であることを悟らせます。 そうすれば、聖霊は、待たずに、私たちを「神の深み」にまで導くでしょう。 なぜなら、「聖霊は一切のことを、神の深みさえも究めます。」(Uコリント2,10)からです。 皆さんが、一日も早く、この素晴らしい喜びを味わうことが出来ますように。 アーメン。
年間第22主日 2011-8-28 A年 グイノ・ジェラール神父
エレミヤ20,7-9 ローマ12,1-2 マタイ16,21-27
先週の日曜日に「神の定めは悟りがたく、その道は窮めがたい。いったいだれが主の考えを知っていたであろうか。」(ローマ11,33-34)と使徒パウロは言いました。 さて、どうしてペトロがキリストの教会の頭となるために選ばれたのでしょうか? どうして終わりまで忠実な弟子であって、イエスの愛された友であったヨハネが 選ばれなかったのでしょうか? 母の胎内から選ばれたエレミヤは、どうして強制的に預言者とされたのでしょうか? その上、軽蔑され嫌われた「不幸の預言者」となるために…? これらの質問を通して 私たちは召命と使命の神秘を考えるように招かれているのです。
私も同じ質問で自分に自問します。 母が私を何か月間か身ごもっていた時に、トラックに強く跳ね飛ばされて、深い淵の溝に落とされたにも関わらず、どうして私はその体内に生き残れたのでしょうか? 私の誕生の日に、私の首に巻きついた臍の緒が、どうして私の息を詰まらせなかったのでしょうか? どうして何世代もの昔からキリスト教的な家族で、またフランスで生まれたのでしょうか? ちょうど63年前8月22日「天の元后の聖母」の祝日に私は洗礼を受けました。 一体、どうして選ばれた私の代父と代母が無神論者であったのでしょうか? どうして神についてまだ何も知らなかったのに、5歳の時に神が私を選んだのでしょうか? どうして小神学校の大勢の仲間は、司祭にならなかったのでしょうか? 私の召命と使命の神秘性がここにあります。
今私が述べたこの全ての質問は、きっと皆様の質問でもあると思います。 どうして家族の中で、自分だけが キリスト者でしょうか? どうして早めに、やもめとなったのでしょうか? ある夫婦は、それを強く望んだにもかかわらず どうして子供に恵まれなかったのでしょうか? どうしていつも自分が病気なのでしょうか? たくさんの協力にも関わらず、どうして良い結果を見ることが出来ないのですか? などなど…。 この質問を解決する答えは、自分たちのうちに見つかりませんが、神の摂理が私たちに与えるしるしのうちに必ず見つけるでしょう。 それを理解した使徒パウロは「何が神の御心であるかわきまえるように、自分たちの思いを新たにするように」と私たちを招いています。 イエスがペトロに厳しく言った言葉は 同じ目的を目指しています。 つまり「あなたの考えは神のものではなく、人間のものである」と。 神の意志を実現するために、預言者エレミヤでさえ、自分の使命を果たさないように逃げる誘惑と戦うことを学びました。 そこでエレミヤは、苦しみながら神に対してひどくうめきました。 「主よ、私はあなたに惑わされて、あなたに捕えられました。 あなたの勝ちです」と。
イエスに従って十字架を背負うことは、明確な答えを持たずに、信仰のうちに歩み続けることです。 自分の十字架を背負うことは、信頼をもってイエスに次のことを打ち明けることです。 「イエスよ、あなたはメシア。 私はあなたの内に自分の信頼を置きました。 どんな道を通してあなたは私を導くか 全く分かりません。 しかし、私の人生の目的が永遠にあなたの内に憩うことだと知っています。 またそれを固く信じます。」
勿論ペトロとエレミヤのように、私たちは 試練や恐れを避けることによって自分の命を救いたいのです。 私たちの良心が はっきりと神の道を教えていても、度々私たちはそれに従わないように誘惑に負けてしまいます。 例えば、自分の信仰を宣言する必要のある時、またどうしても果たす義務がある時、非難と軽蔑を避けるために、私たちは、無言で、何もしないことを選んでいるのではないでしょうか? 人々の偏見とうわさを自分の人生の土台とするキリスト者は、信仰を失う危険に直面しています。 むしろ真理と正しさの難しい道を キリストと共に歩くことを選ぶキリスト者は、必ず信仰に対して忠実に留まり、そして真の命の喜びで満たされるでしょう。
キリスト者であることは、世間の流れに逆らうことです。 十字架を背負うことは、福音化されていない状況の中で、自分の信仰を証しすることです。 キリストに従うことは、夫また妻を忠実に愛することであり、また、分かち合いの思いやりを保つことや誠実に生きることや嘘を否定することであります。 世間の流れに沿っている私たち人間の考えが 神ご自身の考えに変化するように、神のみ言葉は、毎日曜日のミサの時に私たちを目覚めさせます。
もし、私たちの人生の中で神が 第一であるなら、私たちは容易に神に従うことが出来ます。 神に適応するように努力するのは、私たちです。 その反対ではありません。 どうしても神は 私たちの全ての考え、言葉と働きの始めと終わりでなければなりません。 神の業を実現するために キリストに従う人は、自分の個人的な計画を捨てるのです。 神のために、また神の名によって、様々の物事をすることは、とても良いことです。 しかしながら、神が私たちを通してなさることを承諾するのは、もっと良いことであり、その同意は 全然リスクをもたらしません。 毎朝、起きる時、神が今日私たちを通して何をなさりたいかについて、神に願う知恵を持つように努力しましょう。 とにかく、一緒に信頼を持って、順境の時も、逆境の時も、試練あるいは喜びのうちに、イエスの後を歩き続けましょう。 無限の愛の印である神の摂理は、絶対に私たちに不足しないでしょう。 アーメン。
年間第23主日 2011-9-4日 A年 グイノ・ジェラール神父
エゼキエル33,7-9 ローマ13,8-10 ローマ13,8-10
預言者エゼキエルは、見張る人を模範として 私たちに与えます。 見張る人と言う者は 目覚めていて、待ち伏せをして見張っています。 注意深く 人々に危険が襲ってくることを 知らせる人です。 何よりも先ず、見張る人は、他人の命の責任を持っているので、全ての人が 彼により頼みます。 万一 彼が、眠り込んでしまうなら、怠慢な人であるなら、彼に委ねられた 人の命は、危険にさらされます。 その時、彼は責任を背負うべきです。 しかし もし、目覚めていて 前もって危険について 忠告しても、人々が彼の言うことを聞かないとすれば、見張る人は 全く責任がありません。
マタイは福音書を通して、私たちが どのように 見張る人となるかを 説明しています。 世界中に、信じる人々の共同体の中で 必ず、分裂や意見の衝突や 人間の卑劣な態度があります。 キリストの上に建てられた教会は、罪人の教会です。 そこで、罪を犯した兄弟を どのように 助けるかを説明しているのです。 マタイの説明は クムラン宗団の エッセネ派の律法の解釈の中に 見つけられます。 この本は次のように教えているのです。先ず、個人的に顔と顔を合わせて、罪を犯した人に、警告します。次に、習慣的な意見を防ぐために、信徒の助けを願います。最後に、共同体全体の判断を願って参考にします。
マタイの話を通して、イエスは 私たちが 正義の味方となって、人を懲らしめるのを 決して望んでいません。 また、イエスは 密告することや、濡れ衣を着せることも 望んでいません。 むしろ、イエスは 罪を犯した人の陰口をすることや、知らん顔をして 犯した悪について 沈黙を守ることは、臆病であることを忠告しているのです。 キリストの時代に生きていた、ギリシャの哲学者 プルタルコスは、次のように書きました。「友情は、近頃 か細い声となってしまいました。 人をほめたたえるために、友情はおしゃべりをします。 しかし、忠告するために無言となります。 そのために、仕方なく、自分の敵たちから 真理を受け取ります」と。
何よりも先ず、慈しみを持って行うように、イエスが私たちに 勧めているのです。 兄弟の交わりから 離れようとしている人を、共同体に残るように、私たちは、全ての可能性を 探さなければなりません。 兄弟の心を変えるように、勇気と慈しみ、それに加えて謙遜と相手に対する理解を持つことは、必要不可欠です。 回心が、愛の雰囲気の内に 実現されます。しかし、頑固になって、言うことを聞かないなら、私たちは、その人を 神ご自身の憐れみに、委ねることしか ありません。 良い牧者であるイエスは、迷い出た兄弟を 連れ戻すために、必ず、全ての方法を 探し求めるでしょう。 その間、私たちはこの兄弟を 愛し続ける義務を ズート持っているのです。 何故なら、福音を通して イエスが 思い起こさせたように、私たちは、「敵を愛さなければならない。」(マタイ5・43)
もし、私たちの間で、誰かが 自分の過ちに留まるなら、共同体が絶対に彼を裁くことはできません。 この兄弟姉妹が 責任を持って、自ら、共同体から離れるでしょう。 カトリック教会が 破門する時、裁かずに、ただ あるキリスト者の心と 態度の中に 既に分裂があることを、公に認めるだけです。 教会は終わりまで、神の愛と慈しみの 明白なしるし として表れます。 いくらある人がそう思い込んでいても、教会は絶対に人を裁きません。神の愛のしるし として、罪人に対する救いの秘跡として、教会は、「人に悪を行いません。むしろ愛の内に自分の使命を全うする。」(ローマ13−10)
罪が共同体を分裂し、分解する時、皆さんの祈りが、この共同体の一致を支えるべきです。 いくら2,3人の意見が 違っていても、彼らがイエスの名によって 集まって祈るなら、必ず、イエスが彼らの間にいて、彼らを和解と、お互いの赦しへと 導くに違いありません。 もし、私たちが 喧嘩のレベルに 足踏みするならば、益々お互いに 分裂するでしょう。 かえって祈りによって、神に心を向けるなら、私たちは失われた一致を 取り戻すことになります。 小さなグループの祈り、夫婦の祈り、家族的な祈り、教会の祈りは いつも キリストを現存させながら、一致の恵みを私たちに与えます。 万一、和解への私たちの協力に効果が無くても、絶対に絶望してはいけません。「これらの小さな者が、一人でも滅びることは、父の望みではない」(マタイ18・14) ですから、神が必ず、全ての状況を良いものとなさいます。
良いわざを目指している 私たちの協力の結果と、私たちが捧げた 祈りの効果を 神だけが よく御覧になっています。 そう言う訳で 他人を非難するよりも、あきらめずに その人のために 祈り続けましょう。 このやりかたこそ、私たちを兄弟姉妹の責任者とします。 このやり方によって、共同体が生き残るために、私たちが 責任のある 効果的な 見張る人となるに違いありません。 アーメン。
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